前回の記事(木割とデザイン 12/26)を書いたところ、それに対して今年の3月に竣工した小花の家(兵庫県川西市)のクライアント・I さんから、下記のようなコメントを送っていただいたので掲載します。
(I さん、どうもありがとうございました!)
ちなみに、I さんは現在大阪市内の高校で美術の教師をされていますが、大学で美術(彫刻だったと思います)を専攻された方です。
これまでに、毎年1回くらいのペースで展覧会を開催されているようです。
(以下、I さんのメールの転記)
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今朝、ブログを拝見いたしまして、コメントできることをみつけたので、ぜひ感想をお伝えしたいと思い挑戦してみたのですが、「本文が長すぎます」とのことでしたので、できませんでした。
ということで、メールでお伝えします。
すごい !!!!!!!
脱帽です !!!!!!
「木割」のお話から、ギリシャ時代の建築では、円柱基底部の半径が神殿全体の形を規定するほどの絶対的な単位(「オーダー」というみたいです)であったことを思い出しました。
美術作品をつくる(現在休止中ですが・・・)僕にとっては、とても刺激的なお話でした。
(だいぶ語弊のある言い方ですが、勇気を持って書きます)
人間として、世紀も地域も越えて絶対的な美というものが存在するのではないか、ということを最近漠然と、でも強く感じはじめている僕ですが、形づくりを突き詰めていくと、どうしてもそれ以上動かし得ないところ・・・ひとつの究極へとアイディアが収束していく、というのが作り手にとっての事実だと思います。
実はそのあたり、佐藤さんのつくる家にもガツンと出ているように感じました。
(今さらながら、佐藤さんに家づくりをお願いできてうれしく思います)
「一つの究極へと収束させていく作業を、どれだけ感覚をとぎすませて、つきつめられるか」
僕もこだわりたいと思います。
もうひとつ、「素材の持つ強さ」
「ことば」が大きな題材である僕にとって、「素材の持つ強さ」という事実は、これ
から向き合うべき大きなテーマであると思います。
・素材は素材として、既にその存在自体が美しい
・そこに作り手の思いと手数がさらに込められて、新たな次元へと導かれる(形になる)
佐藤さんとは書き方は違いますが、作り手として、きっと僕も近い思いをもっていると感じています
作品において大きな位置を占める「素材」と「過程」、僕の作品が「素材」に依存
する在り方ではないとしたら、その目に見える「素材」「過程」の強さにまけないくらいの作品の「存在感」はどこからくるのか・・・難しいですが、いろんな物をみて、自分も作る中でじっくり考えたいと思います。
今回のブログ、「ガンバレ」と背中に後ろから力一杯にドーンと喝を入れられた感じです。ありがとうございました。
(以上、I さんのメールより転記)
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I さん、どうもありがとうございました。
このコメントはとっても嬉しかったです。
今後のご活躍、期待しています。
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世界に、300年先も美しい風景を